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【イベントレポート】いいたてミュージアム勉強会1 飯舘を学ぶー伝統芸能が伝えることー

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少し前になりますが、先月参加した「いいたてまでいの会」さん主催のイベントのレポートです。

一部、オフレコの話もありましたが、全文その場でメモしました。
(一部、聞き間違いなどあるかもしれませんが、ご容赦ください。雰囲気は伝わるはず)

震災後、離村を余儀なくされた飯舘村(いいたてむら)の村民が相互の絆を維持し、将来の帰村を目指すための活動を推進することを目的とする「いいたてまでいの会」さん主催の勉強会でしたが、村民が離れ離れになった村が結びつくために、伝統芸能が持つ意味。また、それが生まれた背景。復活を目指す地域住民の努力など、非常に感銘を受けました。「伝統芸能」という領域は、ちょっと門外漢な気がしていたのですが、たいへん面白かったです。

10名強の少人数で行いましたが、途中で飯舘村長も飛び入り参加され、濃い有意義な時間でした。明日、第二回勉強会もあるようですので、興味のある方はぜひお越しください。

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【レポート】いいたてミュージアム勉強会1
飯舘を学ぶー伝統芸能が伝えることー
https://www.facebook.com/events/413745258752026/permalink/413745262085359/

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登壇者:
懸田 弘訓(県文化財保護審議会委員、民俗芸能学会福島調査団長)
佐藤 俊雄(県文化財保護審議会委員)
八巻 義徳(飯舘村教育委員会教育長)
小林 めぐみ(福島県立博物館学芸員) ※コーディネーター

他、発言者
菅原 美智子(ラジオ福島アナウンサー)
小野 良昌(写真家)
あらさん(田植え踊り指導)
菅野 典雄(飯舘村村長)

日時:2013年12月22日(日)13:30~15:00
会場:ふくしまキッチンガーデンビル2F(福島県福島市栄町10-3)
参加:無料
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・懸田弘訓(県文化財保護審議会委員、民俗芸能学会福島調査団長):

1940〜1950年の調査では、県内に1200の民俗芸能があった。7〜8年前にカウントし直したら約800に。400が減ったということ。県内の「神楽」は250箇所。170が相馬の旧中村藩。浪江町、富岡町、双葉町といったエリアを中心とした中村藩。

県内の「田植え踊り」は120箇所。70箇所が相馬の中村藩にある。なぜ、そんなに(中村藩に)多いのか。それは、230年前に天明の飢饉があったから。普通は1年で終わる飢饉が5年続いた。

二本松藩は、1年目で人口の1割が餓死した。その後は、多すぎて記録がとれていない。その時、相馬地方が一番被害が大きかった。夏に起きる「やませ」が吹き荒れ、相馬藩の収穫量が年ごとに減り、平常時の1〜2割に。。5年目には、人口が3分の1になった。6人家族であれば、4人が亡くなり2人に。

飯舘村は特に標高が高い。1年おきに凶作になるところも。餓死者も多く、ひどい時は「犬や猫の糞でも口に入れてくれ」と口にして死んでいった人がいるという記録もある。ほとんどが農民なので、(人口が激減した状態では、)藩が成り立たない。そこで、相馬藩の政策として移民を募った。餓死者の空き家や農地を割り振った。ご法度のため、1件だと移民は怖くてできないので、数戸が集まってした。昼間は歩かずに山の中に隠れながら。1〜2ヶ月で相馬にたどり着く。ただ、日本海から太平洋に来て簡単には定着できない。そこで、彼らが支えにしたのが民俗芸能。

神楽は五穀豊穣を願う。定期的に春と秋に行う。大雷神社。ことあるごとに神楽をする。だから多くなった。田植え踊りは豊作祈願は願う。あっという間に広がった。だから、県内で120ある田植え踊りのうち、70が相馬。また、その中で18が飯舘村。ただ、なくなったところもあり、12箇所が県の指定。(震災の影響で調査がストップし、1箇所。まだ県指定にできていないところもある)

田植え踊りの特色は、320年前の会津藩が書き残した風俗帳(?)に記録がある。若い男が女装して、田植えに関する歌を歌って太鼓をたたき、家々を回って歩いた。(「踊った」という記録はないので、当時は踊りではなく行事だった)

文化年間の記録だと、同じ若い男が、「雌型にこしらえて」「早乙女に扮して」、「一軒一軒を歩いて」。そこに笛が加わり「踊った」そう。行事としては320年前に生まれ、200年ほど前に踊りが加わった。

最初は単純な踊り。立って扇子を待ち、八の字に4回まわして、戻して2回まわして、手を広げるだけ。化粧をして、笠をかぶって、これは下手な女性より色っぽくなる。あ、ごめんなさい(笑) ※女性の方を向いて

これが二本松に来ると、23の踊り(動き)になる。田植えの動きをすべてやる。草むしり、種まき、田植え、稲刈り、脱穀、俵に詰める、俵を重ねるなど。

それが、飯舘村に入る。飯舘村の田植え踊りは、石井(編者:旧石井村のこと?)のものに非常によく似ている。

飯舘村は村と言っても非常に広い。18のうち、15〜16の田植え踊りを体験したが、全く違う。それぞれ変化した。

二本松の石井は二列にならぶ。奴(やっこ)と早乙女が。

飯舘は丸くなる(円になる)演目がある。

浪江町の津島に行くと、わらびおか(飯舘村蕨平の聞き間違い?)とそっくり。

飯舘から枝分かれして、原町・小高に行く。原町・小高に行って変化しながら海岸へ行く。最終的に小高区の村上の田植え踊りと、浪江町の請戸(うけど)の田植え踊りはほとんど同じ。地元の人は違うというが(笑)我々からすると同じ。村上から請戸の方に伝えた。

二列になった早乙女と奴(やっこ)の間に、太鼓持ちが二人はいる。

飯舘村は、田植え踊りをいろいろにアレンジし、浜通りに広がっていった家元。だから大切。どれが1番大切とは言えないが、どれも大切。だから面白い。家元をなしたというプライドを、飯舘の方はぜひなくさないでいただきたい。

その他、飯舘には、草野・比曽(ひそ)の三匹獅子がある。相馬藩の三匹獅子は四匹か五匹。形態的に宮城県に近い。中通り、会津はすべて三匹。子どもがやることが多い。これは、飯館と中通りとの交流があった証明。塩の道を通った。かつてのメインストリート。

昔、岩代町(今の二本松)のおばぁが言っていた。

「昔の方が活きのいい魚を食べられた。相馬でとれた魚を裸馬(はだかうま)に乗せて、相馬から飯舘を撮って小浜(おばま ※編者:旧二本松の小浜町のこと?)に運ぶ。それを下ろしていくから」

この話から、中通りと飯舘との交流は非常にあったということが言える。

田植え踊りの復元に関しては、非常に苦労をかけた。中学生には無理だと思った。難しいんです、なかなか。ラジオ福島にお世話になったのは、何月頃でしたっけ? 去年でしたよね。放送のための録音でお邪魔したんですよ。計画したのか偶然か分からないが、(ラジオ福島の)菅原さんがお越しになって、「田植え踊りの復活を考えている」と言っていた。私、美人に弱いので(笑) これは何とかしなければと思った。

予算はなかったが、飯舘のために何とか工面した。女子生徒はきれいな留め袖で踊っているが、男は法被(はっぴ)。ちょっとかわいそう。確約はできないが、来年度、男の子のための紋付羽織を、予算が通ればさしあげたい。

震災のあった平成23年度に文化庁から(伝統芸能の)調査をやれと話があり、調査団をつくって調査を始めた。ただ、浜通りはみんな地元におらず、その時、どこにいるかわからない。役場でも教えてもらえない。個人的な繋がりで探した。どうしてもいなく、13の教育委員会をすべて回った。会津まで行った。中には手一杯で協力できない団体もあった。飯舘も。

困っちゃって、初年度は調査できなかった。偶然、佐藤さん(佐藤俊雄|村文化財保護審議会委員)の携帯電話番号がでてきた。生き字引なので、佐藤さんにさっそく電話して、「悪いけど、できたら被災した方の居場所を探してくれ」と言って。苦労したと思いますよ。30団体くらい探してくれて、28団体くらい調査できました。一番の功績は佐藤さん。いなかったら、飯舘村は一箇所も調査できなかった。

そういうことで何とか、数えきれないほど飯舘村にはお世話になったが、ご恩返しができればということで。

原さんの保存会の中で、地元に帰るまでの間、子どもたちに教えて繋いでもらう。それは、学校の協力がないとできないので、協力をいただいている。補助ではなく。いつの日か、地元に帰って、大人も子どもも一緒に踊れる日を夢見ています。ちょうど15秒前ですね。ありがとうございます。

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・佐藤俊雄(村文化財保護審議会委員):

小林さんの方から理論的にしゃべろということがあったんですけどそういう話はできませんで(笑) 役場に40年近くお世話になってますけど、私が携わってきた歴史の検証など、みなさんにお話できれば。

実は、今、話がありましたように、飯樋(いいとい)という町の出身です。

最初に郷土芸能みたいなものにでくわしたのは、飯樋の●●神社の●●様(※聞き取れず)という、農の神様。4年に1回の大祭で、お宮(おみや)を移す。2日に渡るお休み。その時の山車(だし)に子どもたちについてもらう。

田植え踊りは、小正月の時にやる行事。地区の10数戸の部落が、新年会の時に「田植え踊りやっぺ」という話しになる。

明日から練習するという話しになった。昭和38年。中学3年生の時。あの時は、10数戸でも子どもたちがいっぱいいたので、人数はなんとかなった。

私たちが頭で、一番下は小学校4年生の女の子。それで、2日間やる。7日間練習をして、最後の時にお寺を回って集落を回って。

仕草や歌も若干覚えている。

それぞれの田植え踊りに色んな特色がある。江戸時代の飯樋村(いいといむら)。4つか5つ田植え踊りがあるが、それぞれ違う。飯樋村が一番華やか。やわき(?)というところは、石の七福神が出るところ。七福神が田植え踊りの前に出てくるところ。おおくぼってところは、ほんのう踊り(?)。ちょっと違う踊り。それぞれのいいところをとりあげて、自分たちの踊りにしていった。

私は、高校が終わって役場に行って。もともと、古い話が好きだった。小学校の時に土器を拾ったのが始まり。文化財の仕事に携わるようになりました。青年会活動の中で、田植え踊りを復活しようという話があちこちから出た。

深谷(ふかや)の青年会がまず田植え踊りを復活させました。たまたま広報の担当だった。広報の表紙に載せました。県の方でもその時期に、『民俗芸能を継承させる』というテーマで事業がありまして、民俗芸能のふるさととして指定を受けました。飯舘の会津の南郷だったと思うが。青年会も何地区か、公募に出しました。

その時に、民俗芸能大会というのをやることになりました。3年か4年は毎年やったと思います。

田植え踊り・神楽・それから三匹獅子を中心に、ずっと続いています。その後、一時、廃れまして、竹下登さんが一億円を配ったあの時期に、「飯舘の地区にもお金をあげるので地域おこしを自分たちで考えてやりなさい」というのがあった。知恵を絞って、田植え踊り、郷土芸能をやろうという動きがあった。そこでまた盛り上がり。飯樋、やまきはまだ復活できませんでした。

その前、県の指定は12箇所。当時、復活していた。

その後、3箇所、やまき、飯樋町(いいといまち)、八木沢(やぎさわ)というところが復活した。が、指定を受けるまでには至りませんでした。

その後、飯樋町に、何とか復活させたいという希望を持った指導者が現れまして、やりたいということで、その後ですね、始まったのは。ずいぶん苦労して、田植え踊りを復活させてもらいました。その他の芸能も、芸能復興祭という形で、今も続いていますけど、やっています。

三匹獅子の話。比曽(ひそ)で中断することなく続いています。私が公民館に入った頃、くさっぱでやっているのを高校生の時に写真を撮りに行った。

中通りとの交流の関係で、塩の道の獅子大会を2回くらいやりました。あっちの方の田植え踊りを招待しまして。三匹獅子をやってもらいました。盛況になりまして。踊りも、似ているんですね。そんなことがありました。そんなところが今までですね。やまきの後は飯樋町だったと思います。

おかげさまで、県の大会とか全国大会にも出させてもらって継承してきた。震災があって、踊ってくれる人が少なくなって苦労しているようであります。私は、教育委員会とかでやれやれ言っていただけで、実際にやりませんでした(笑)

中学校の校長先生とある会議を一緒にやりまして。中学校で子どもたちに芸能を伝えたいということを考えてるというお話がありまして。なら、田植え踊りでしょう。しかも、できそうなのは、飯舘町だなということを言って。

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・小林 めぐみ(福島県立博物館学芸員):

飯舘村の行政が「伝統芸能を復活させたい」ということで色々なことをされた。行政側のアプローチがあって、一方で、何かもらえる国からのお金で「何かしませんかね」っていうところで、自発的に出てきたプランが「伝統芸能を復活させたい」ということが素晴らしかったと思います。その方向性があることで、飯舘村で伝統芸能があることを素晴らしいと思いました。

今年は、中学校の授業の中でやっていらっしゃいます。保存会の皆さんご協力をいただきながらやっていただいていると思いますが、集大成として、古民家で本来の形に近い形でやってもらいました。

本日、菅野村長にお越しいただいておりますので、ここで突然ですみませんが、個人として、村としてどう捉えていらっしゃるのかお聴きできたら嬉しいです。

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・菅野 典雄(飯舘村村長):

飯舘にとって害のないシンポジウムの害のあるシンポジウムがある。どちらかは題をみてすぐにわかるが、そういうのもあって(害のないシンポジウムと思って)、今日はおじゃましてみた。

「震災にあわなかったらこんなことはできなかったよ」という考えがあれば、避難生活を乗りきれる、ひとつの心の持ち方かなと。

皆様方のおかげで、子どもたちに伝統芸能が引き継がれたということは、たぶん震災に合わなければこんなことにならなかったのではないかという思いがありまして、多くの人達のおかげでバトンタッチができている。心のバトンタッチができるのはとても嬉しいことだなと思っています。突然で、答えられたか分かりませんが、ご挨拶に変えさせていただきます。

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・小林:

厚かましくて有名な小林で。これで人生を渡ってきまして申し訳ございません(笑)

中学生の田植え踊り、保存会のみなさんの協力で、ほんとにできるのかと思ったものが形になりました。

福島県の飯野の古民家。12月5日に舞ってもらいました。中学生の本気度、ぜひみていただきたいと思います。

では、撮影した小野さんお願いします。

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・小野 良昌(写真家):

今日の上映会は10分ということで、10分に無理やり編集しました。

懸田さんのインタビュー、あらさんのインタビュー、学校の先生へのインタビューをして、30分位の構成のものができれば良いと思いつつ、毎週木曜日に、あらさんとかに来て教えたり、こども達と先生だけで教えるときもありますけど、そこで僕が思うのは、僕も実際、田植え踊りを子どもたちと同じように知らないで行くことにしていたので、子どもたちが飽きている表情が。

僕自身もモヤモヤしたものがありましたので、仮設、●●(←聞き取れず)、学校の文化祭、境野(さかいの)さんのお宅の4回、(やっている間に)吸収していく。踊りへの興味のない子もたしかにいるんでしょうけど、全員がいろんな場所でやるのは良い経験になっているのだろうと、つくづく思いました。学校の先生も、知らない状態でスタートしているのもあると思うので、1回経験した方たちが先生も含めて次にどう伝えていくのか楽しみです。

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・小林:

次年度以降もふるさと学習を続けていくとお聞きしています。2年生は昔話を教えてもらって紙芝居。3年生は味噌を作って。村の文化を村の人に学びながら、ときどき、外の方、小野さんのような方に手伝ってもらいながら、核心を学んで受け継いでいくのかなと思います。

素晴らしい取り組みだと思っています。3年目には3学年合同でできるかもしれませんね。そんなことができたら素晴らしいと思います。

今までの動きを、教育長からご感想も含めてお聴きしたいと思います。よろしくお願いいたします。

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・八巻 義徳(飯舘村教育委員会教育長)

私も実際に飯舘村で生まれて、中学まで飯舘。その後、外で生活してまいりましたので、小さな頃、聴いたなという感じがします。さきほど、懸田先生のお話。発表までもってきていただいた佐藤さんのお話、原さん、小野さんのご努力に心から感謝いたします。

やる気あるのかないのかわからない表情からここまでの表情に変わってくる。これも大きな成長だと思います。子どもたちを見ていて、できるだけステージに立つ回数を増やしていく。それによって子どもたちが変わっていく。学校でも見られないような代わり方。その変化を学校の先生は恐れてはいけないと思います。特に、今、子どもたち避難生活をしておりまして、ずっと幼小中を合わせると、村立(の学校)にいるのは半分くらいの子どもたち。半分ですけど、飯舘村にいる時より圧倒的に人と人のかかわりは増えていると思います。これはこれで良いことと思いますし、離れているだけに飯舘の自然を考える機会も増えているのかと思います。

ふるさとを知ることは自分を知ること、伝統を知ることは親に感謝することでありますし、その中で自分の生まれ・生い立ちに誇りをもてることなのかなと思います。懸田先生の話しにありましたように、食との繋がり。自然との繋がりがあるものですから、食育かなと思います。

人口が増える・増えないはともかく交流人口は増やさないといけないと思います。定住人口はもちろん、交流人口。そのためには今までの伝統を大事にしながら、新しい知恵を入れていく、外の力を入れていく。その中に文化財があると思います。特に今日みたいな無形文化財にはフォローの風が吹いていると思います。ふるさとを離れてみて、自分たちの文化財をどう守るか。離れているから危機感があるわけで、危機感があるのは大きなパワーにある。そういう環境にあると思います。

なんとかこのパワーを利用して飯舘村の再生につなげていきたい。集まっている皆様なり、有識者の力をお借りしなければならないと改めて感じております。この時の学校の役割りは大きいと思っております。なかなか外から見えないと思いますが、飯舘村は僻地指定になってるので、手を上げれば2年で異動できます。教員レベルで繋いでいくのは難しいと思います。3月になれば、震災の時のあの困難を知っている者はほぼいなくなる。地域住民の協力がなければ、維持ができない。地域住民が核になる必要を感じています。

昨年から今年にかけて、本気になって議論しまして、学校運営協議会で学校経営をしていくと。来年の4月から変えていきます。

地域運営協議会に学校長がプレゼンして、「ああして欲しいこうして欲しい」を地域住民にお聴きして、計画を立てていく。その中で、地域の方から、伝統的な時間が足りないとか、勉強時間が足りなくなるとか、そういった議論をしていきたい。

土曜日の隔週2日くらいの有効活用ということに今、考えているところであります。どうしても月曜日から金曜日、余裕がないということで、土曜日の過ごし方で課題を抱えているので、土曜日に、充実していないということであれば、学校側で土曜日の活用の仕方ということで提案していきたい。

住民が残すもの、変えるものを主体的に子どもたちと考える時間にもなると思います。多くのかかわっていただける方々、なんとかしてやりたいと思っている方々と連携できるのかなと思っております。

そんなことで、地域主体で学校主体で、有識者の方針をいただきながら、新しい決意をしていたところでございます。

今後共、子どもたちとかかわっていただけたらということでまとめさせていただきました。ありがとうございます。

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・小林:

学校の方針に地域の方々がかかわるということで、今年始まったものがパワーアップして内容も濃くなっていくと思いました。良い形で二輪になって、子どもたちに良い形で活動していく場を作ってくださるのだと思います。

その中で、交流人口を増やす、「かかわりしろ」をつくっていただくということと思いまして、何か一緒にできることを嬉しく思います。

伝統芸能が様々なことを伝えていることが見えてきたと思いますが、色々な人の願いを込めた伝統芸能。今も変わらないと思います。子どもたちも、今はピンと来なくても、みなさんの幸せを願いながらしていただけるのだと思います。

あらさん、1年間、子どもたちの様子を見ての感想、いただけますでしょうか。よろしくお願いいたします。

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・あらさん:

なんでふるの(笑)

あのね。このふるさと学習。その中の伝統芸。もともと、飯舘って子どもたちが踊っていたのね。子どもたちが踊ってやっていくと、社会人になっても覚えているわけ。だんだん、中学生・高校生になると恥ずかしいってなる。だんだんやらなくなる。で、一般社会人がやる。

不思議なもので、最初、私たちも映像で見るように、練習段階で子どもは嫌がる。中学生くらい。色気もついてきて。特に女の子はそう。いやいやながらやっている。ところが不思議なもので。だんだん、人前で。最初は仮設。松川のだいず(?)仮設。まるきり練習の時と態度が変わった。「こんなことではまずいんじゃないの」って自覚する。無理やり飯舘の文化祭に出して、踊らせて、みんなではなかったんですけど、その中で、違ったまた感動で。本番のせきしょうさい(?)。これが踊ってみたら、素晴らしい、踊った人もそうだけど、見ている人に感動を与える。松川の第二仮設に行った時。

踊りは歌もそうだが、素質がある。素質がある人は上手。見た目にはっきりわかる。上手下手はやむを得ない。全国大会に行くとなれば、まだまだ練習して上手な人を連れて行く。みんなで一つのものを作り上げ、踊って見せて、見ている人に感動を与える。松川の第二仮設に行った時、3年生の作った味噌でできたおにぎり・お味噌汁を飲んで、伝統芸能を見る。最高のパフォーマンス。ある人は「冥土の土産に最高だった」と言っていた。たいへん素晴らしい。子どもさんも高齢者の方も。

勉強ではできなかった、色んな人に感動を与えるというようなことも、人生経験の中では、重要だったなと思います。子どもたち、表情もだんだん変わってくるでしょ。

着物を来て、境野先生のところに行った時には、化粧をしてくれたんです。化粧をするとき見ていたんですが、鏡の前で自分の表情が変わるわけです。「まぁきれいね」なんて(笑)

それで着物を着るでしょ。それでだんだん表情が変わる。子どもって素直ですから、私は素晴らしい宝物を懸田先生にいただけたわけですから、素晴らしい伝統芸能を後輩に伝えられたらと私は思います。

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・小林:

子どもたちの方も、終わった時にまたやりたいと言ってくれました。子どもたち、またやりたいと言ってくれたの大きな変化ですよね。すごく楽しみな飯舘中学校の田植え踊りです。

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・懸田:

岩手県では小学校の7割が芸能やっている。中学校は6割。子どもたちの芸能大会をやっている。卒業生も来ていたが、学校にいて芸能をやっていたら、都会にいて挫折したら戻ってころう。

地元で仲間と一緒に芸能をやっていたこと。仲間がいるというプライド。それが大きな支えになった。

一つのことを成し遂げる、辛いことを成し遂げる感動。それが絆を強める。芸能そのものは義務感でやるのではなく、学校の共同体としての絆を深めるため。その精神的な力を養う場。言い換えるとふるさとそのもの。芸能なくなるとふるさとなくなる。大切な文化財というだけではやってくれない。面白い、そして感動を与えることができた、みなさんとやって楽しかった。それが芸能を支えると思う。

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・先生:

もう一つありまして。学力と生活状況調査というのが1年に1回ある。飯舘村のこどもの自己肯定感・自己有用感が低い。さきほど、あべさんが言われたように「美人だね」とか、本気になって喜ぶ。これは本当に大事なことだと思いまして。ただ、教員の多くは交渉することが苦手。地域支援コーディネーターという補助事業で1人を配置し、外の大人とコーディネーションする人を配置している。

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・佐藤:

こんなことを好きでやってきただけで。。。好きだからこそ続いていくような気がします。この間、ちらっと中学校で、飯舘村の田植え踊りだけやるんだと言われたそうで。これはチャンスだと思います。他の地区でもプライドを出すために、良い企画だと思います。なかなかたいへんだと思いますけど、これからもそういう形で何かできればありがたいと思います。今日はありがとうございました。

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・小林:

今日はみなさん、お集まりくださいまして、ありがとうございました。これで私の役目を終わらせていただきまして、菅原さんにお戻ししたいと思います。

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・菅原 美智子(ラジオ福島アナウンサー):

半年で見事に変身した生徒の様子を見て感無量でございます。来年度、どうするかがひとつ
課題と思いますが、地元住民の本気度が重要という話しができましたので、ぜひぜひ地元の方の協力をお願いします。

今まで、仮設住宅にいたお年寄りがやっとでてきた。そして、歌を口ずさんだ。それが一番の成果だと思います。原発関連死の方が直接の被害者よりも多くなっている。

仮説に住んでいるお年寄りにどういう風に生きがいを持っていただいたら良いのか。そもそもの出発がそこだったんです。子どもはその次だったんです。お年寄りが最初だったんです。目標に向かって、ほんのわずかですが、達成できたのではないかと私は感じます。

本当にささやかではありますが、そっと寄り添っていけたらいいなと考えておりますので、ご支援の方、よろしくお願いいたします。

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途中、中学生による「田植え踊り」の上映があり、これは文章では伝えられないのですが、youtubeにアップするという話もあるそうで、希望があれば、ぜひ、いいたてまでいの会さんまでお問い合わせください。

また、明日(1月18日1)の14時から、以下の通り、第二回勉強会を開催するそうです。

次回の勉強会は、いいたてミュージアムの発案者・港千尋さんをお招きします。 前半では「港千尋さんのいいたてミュージアムワークショップ」、後半のトークでは「港千尋さんに聞く<いいたてミュージアムって何するの?>」をテーマにお話しいただきます。

いいたてミュージアム勉強会2
「いいたてミュージアムって何するの?」

日時:2014年1月18日(土)14:00~16:00
講師:港千尋さん(写真家・多摩美術大学教授)
会場:ふくしまキッチンガーデンビル2F(福島県福島市栄町10-3)
お問い合わせ:いいたてまでいの会事務局(070-5622-4982)

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